JR series とは?


JR series との出会い

知らない方も多いかと思うが,MSXが出る前に 松下通信工業が 製造,松下電器産業 が販売していた8bit パソコンのシリーズである. JR series には JR.100, 200, 800(Handheld)と3種類ある. JR.300というJR.200+X1(like)というマシンもあったのだが, 正式には発売されていない. しかし,カタログは存在し展示でも見たことがあるので, ラインナップとしては存在する,と言われている.

私の JR series との出会いは,1982 年 11 月にさかのぼる. 当時,アーケードゲームを題材にした漫画 「ゲームセンターあらし()」が流行っていて, 「こんにちはマイコン()」をよく読んでいたものである. ここでは,NEC PC-6001 が取り扱われ,10万円を切るマシンとしてヒットしていた. まだ「ナイコン族()」 だったので,阪急イングス()に 行っては PC-6001 でいろいろ遊んでいたものである.

しかし,PC-6001 は色が4色しか出ない.ゲームの数は多いが,買うつもりもない. ここで本屋で思いがけず手にすることになったのが, 「マイコンBASICマガジン()」1983年1月号()である. この号の表紙見開きは JR.200 の広告だった. 小学生の私にとっては,性能とかそういうものは全く分からなかったのだが, デザインと8色表示と3重和音に魅力を感じたのである.

この頃に新しく発売されたマシンは JR.200 の他,X1(SHARP),MZ-700(SHARP), PC-9801(NEC),FM-7(富士通),SMC-70(SONY), ぴゅう太(TOMY),MPC-20(三洋),VIC-1001(コモドール),ZX-81(シンクレア) などがある.どれも高性能高価格か魅力に欠けるかのどちらかである.

ということで 4月に JR.200 を買ってもらうことになった. ソフトを買うという概念もなくひたすら,ゲームを作ることを糧とすることに なるわけである. 以下,現在の私に大きな影響をもたらし基礎を与えてくれた JR.200 について解説する.

本体

RAM は 32KB と当時としては結構広い方だった. メモリがオーバーする程のプログラムを作った記憶もない. I/F は貧弱だったが,ハード屋ではなかったので特に困らなかった. 100pinの拡張バスがあったが,最後まで仕様は分からないままだった. あのバスを使ったのはFDDだけである. 音も出たが,PSG ではなく低周波発振だった. MML もなく,強制的に POKE文でメモリに書き込んだものを 演奏するという手段しかなかった.

珍しいところでは,RFユニットが標準装備だった.裏面には 1ch/2ch 切替えまである (^^;)

カセット

1983 年当時は,保存媒体と言えば変調レートが 600baud のカセットテープが 主流だったのだが,JR.200は(普通のレコーダで)2400baud と高速だった. テープだから120分を使えば大容量と思うかも知れないが, 実際はそううまくは行かない. 音楽用の長時間テープは薄く作られているため,繰り返し使われる パソコン用記憶媒体には向かない. そこで,SONY や National がこぞって 10分,20分テープを発売していたのである.

キーボード

なぜか JR series の CTRL は CTRL ではなかった. CTRL+M は CR ではなく,MON[CR]だった. ついでにいうと,Aから順に,AUTO,BEEP,CLOSE,DIM だったと思う...つまり, BASIC のコマンドが割り付けられていたのである.実際のCTRLの入力は,CTRL+SHIFT が正しいのだが,説明書にはもちろんない. この機構はJR series は全て持っている.SEGA の SC-3000 が真似た記憶もあるが, 詳細は不明.

材質は消しゴムとよばれた,ゴム製である.家庭用ゲーム機のパッドと同じ仕組みである. 使う毎に誤入力が現れるようになり,悲しい事に数年経つと少しずつ融けてきて, 使えなくなってしまうのだった.

開けて掃除すればいいと思うかも知れないが,そう簡単には開かないようになっている. 拡張がRS-232Cしかなかったことを思うと,当時の姿勢がうかがえる.

BASIC(1)

ソフトはいくつか出ていたらしい.もちろん松下通信ブランドがほとんどであり, 当時の大御所のハドソンやキャリーラボなどからは何も出てなかったと思う. ユーザはBASICでプログラムを組む事を楽しむためにマシンを買っていた時代であるから, (X1 XEVIOUSが出るまでは)別に気にはならなかった.

当時は,BASIC リストを載せた投稿雑誌ばかりだった.JR.200 といえば, Basic MagazineとPIOくらいだろうか.最初はBASIC もよく分からないのでひたすら入力 して遊び,そのうちリストを変更するようになり,PEEKとPOKE を使うようになってしまった.

しかし,専用リストだけでは物足りないので,他の機種のゲームを持って来ることも よくあった(まだ移植と言う言葉は頭にない). JR には グラフィックが無く,かわりに単色ユーザ定義文字でキャラクタを作っていたので, FM-7 の PUT@ や X1 の DEFCHR,その他 LINE や CIRCLE はどうしようもなく, 悔しい思いをしたものである. それでも,結局打ち込み,移植を合わせるとカセット20本(プログラム200本)くらいは あったと思う.

BASIC(2)

BASIC が使えるようになると,今度は何かオリジナルを作って見たくなる. なんやかんやと思考錯誤していくうちに何本かできあがり,雑誌に投稿するようになった. まあ載る事はあまり考えていなかったが,いくつか載るようになると作るのが非常に 楽しくなってきたものである.

その最中に,松下と電波主催のプログラムコンテストがあった. 参加賞が National ブランドの10分テープ(この時はまだほとんど売ってなかった)だった ため,カセット交換ついでに山ほど(20本?)投稿したような気がする. 山ほど参加賞が送られてきたが(^^;),1つだけ何か賞に選ばれたようだった. 確認すると,優秀賞(一番はグランプリ)だという.このおかげで当時8万もする 8ドットプリンタを得る事ができた.

マシン語

マシン語の習得には非常に苦労した覚えがある. 以下は中学1年の初頭のころの話である.

JR.200 の頭脳は MN1800A(M6802 互換) である.M6800 は Z80 におされてマイナーな 石ではあったが,それなりに知られた石である.

使ってたのは BASIC ばかりだったが,いつしかマシン語を使うとなんでも一瞬でできる らしい,ということを耳にする.同時に間違えると電源を切るしかないとも. BASIC でできないこともできる,とあって,マシン語とはなにかを探し始めた.

しかし,頭脳が6800系であることは分かったものの,資料はなくて困っていたところ, 2つのヒントを捜し当てた. 1つ目は,プログラム入門書(松下)にある謎の文である(記憶曖昧につき不正確).

このようなアセンブリ言語を翻訳した結果,次のような16進コードが得られました.
LDX #$5000	CE 5000
LDA $00,X       A6 00
    :             :

何のことか分からなかった. 2つ目は,雑誌のJR.100のプログラムに,一部 POKE と DATA で16進データがならんだ リストがあったことである(記憶曖昧につき不正確).

DATA $CE,$C3,$DF,$A6,$00,$A7,$20,$08,$C8,$C1,$00,$26,$F6,$39

何のことか分からなかったが,1つ目の16進コードと出だしがよく似ている事から, このアセンブリ言語というのが鍵だろうと思っていた. そして,プログラム入門書の付録に変なコード表を発見する. しかし目次にも本文にも説明はなく無視していたが,後でアセンブリ言語の文字列と 表の欄の文字列,16進コードと表のコードの一部が対応する事を発見し, この表がマシン語を使うための表である事が分かる.

もちろん使い方はわからず,雑誌のプログラムを解読して,なんとなく画面スクロール だけはできるようになっていた. この頃に作ったゲームはほとんどスクロールしているはずである(^^;.

後になってようやく工学社から6800ワンボードの解説書がある事を知り, ひたすら探し回ってなんとか確保する事ができた(1980年あたりの本). そこで,アドレッシングモードを知り,何をしてるかをようやく理解する事が できたのである.

ユーザ定義文字

JR シリーズには,ユーザ定義文字という通常の文字の代わりに定義できる文字が 64個あった.それを使うことで,グラフィックがないにもかかわらず,十分表現力が あったのである. (ちなみに,グラフィックとしてテキスト上に64x48ドットの点を打つことはできたが, ほとんど使えなかった)

ある時,ユーザ定義文字をコード順に横に並べて,周期毎に1文字ずつ定義しては 消すという革新的な技が現れ,これをマシン語で制御する事でかなりのことが できるようになった.(確かJR100で有名な田辺氏が最初に始めた技だったはず) その後,定義文字書き換えとスクロールが技の主流になったのである.

その他,点を打つところだけユーザ定義文字を置いて,強引に関数グラフ (グラフ構造と区別するためこのように表現する)を作ったものや, 元の文字も再定義できることから,この部分まで用いて強引に対戦将棋を 作った物が現れたりして,制約がきつい程恐ろしい物が出て来るのか,と 実感したものだ.

BasicMaster L2/Jr.

もちろん日立のマシンであるが,頭脳はJR100/200と同じ6800である.グラフィックが荒いのと, 頭脳が同じ,VRAMのアドレスもそのまま平行移動($C100〜$C3FFと$0100〜$03FF)できるとあって, かなりのゲームを持って来たような気がする.

こちらも参考になる技が結構あった.スクロール以外のマシン語もこれからだった かもしれない. 特に,BMでお馴染みだった森氏の核分裂ゲームは未だに衝撃的な記憶として残っている.

松下通信

JR シリーズは松下電器ではなく,松下通信の製品である. こちら(緑区佐江戸工場)へはかなり質問の手紙を送ったような気がする. そのたびに丁寧な返答を,それも開発部直々からいただく事ができ (大半はご希望に添えませんだったが(T_T)),非常に感謝している.

もちろん,内部アーキテクチャ公開も回路図公開も皆無の時代だから, 質問がそこへ及ぶものは何も回答を得られなかったし, 迷惑窮まりない行動だったかもしれない. しかしここでバス仕様辺りを公開してくれていたら, 中学生如きでももうちょっとハード寄りなことができていたかも知れない, と勝手に後悔している.

その他,何回かJRユーザーズグループの紹介もされたが, (どういう理由か忘れたけど多分関西じゃなかったから)結局入会する事はなかった.

FDD

FDD は高価だった.Line-upに並んだ時はうれしかったが,非現実的でもあった. 2Dが1台 129,800円である.ディスク自体も高価だった.10枚で18,000円だった と思う.数年間,そういう物は存在しないと忘れていた.

数年後,デジットにて偶然JR.200用のFDDと アダプタ(もちろん"なんかわからないもの"で出ていた)が合計3000円で売っていて, すかさず回収することができた. が、肝心のBasic(BIOS)がないので,直接松下通信に問い合わせることにした (向こうにすればそんな製品があることも忘れてるだろうけど).

なんとか探してもらった末に,唯一倉庫で眠っていたBASIC(システムディスク) をもらうことができた. すでにJR.200は使っていなかったが、作ったプログラムや移植したプログラムの入った テープ数十本をほとんどFDに収めることができたのである.

宣伝

先にも書いたように,店頭で見かけたのは初期のころだけだったが, 雑誌の宣伝はかなり長い間載っていたような記憶がある. おそらく,6〜7ヵ月は背表紙見開き広告だったと思う.

記憶にある一番最後まで店頭にあったのは,今のOAシステムプラザ(交差点角)にあった 丸善無線(もちろんあの学生の店でおなじみだった店)だと思う.

その後

JR.200のエミュレータなんてできたらなつかしいのに...と思いつつ、I/Oが全然 わからない(ROMは昔眺めたが分からなかった)上に、JR.200のゴム製キーボードは すでに劣化して使えないので、構想だけである。


註:

  1. すがやみつる著.ゲームセンターネタを扱った漫画で, 主人公あらしが挑戦して来る敵(?)とゲームで勝負し, 「炎のコマ」や「エレクトリックサンダー」などの不条理な必殺技で戦う,という もので,インベーダー時代の暗いイメージを脱却するきっかけになったとも 言われている.
  2. すがやみつる著,小学館刊.あらしとみつるが PC-6001 について解説する,当時ブームの火付け役となった本である.PC-6001 ユーザは必ず 読んでいたはず.付録に実寸大PC-6001 キーボード写真がついていた.
  3. 大阪の阪急梅田駅の道路を挟んで東側にある百貨店の分店. 基本的にはスポーツ用品などを取り扱っているが, 1983 年当時は 2階の一角がパソコン売場で,南側の階段から出入りする小学生を よく見かけた(我々のことだが).
  4. 死語となっているが,パソコンを持たずにショップでいじり倒している人種を指す.所有している人種を「アルコン」と読んだかどうかは 定かではない.
  5. 電波新聞社刊.BASIC のプログラムリスト(主にゲーム)を 読者から募集して掲載するという,当時としてはBASIC の生きた教材として 愛読されていた雑誌である.
  6. 1983年1月号は初めて付録がついていた.なぜか秋葉原マップである.私は未だにこれを所有している.

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